場のテーマは「複数的公共性」 世のなかに外野から問いを投げかける
たちばな 地面も壁もコンクリートむき出し。ここは独特の雰囲気がありますよね。
岸本 20年以上放置されていた廃墟にあまり手を入れずそのまま使っています。2階は元ボウリング場、地下は元銭湯。最初にこのスペースを紹介されたときは、今よりもはるかに廃墟でした(笑)
たちばな なぜ、劇場やギャラリーをやることにしたのですか?
岸本 日本の大学で文化人類学、大学院で表象文化論を学んだのち、海外の大学院でドラマツルギー(演劇論)を専攻していました。劇場を自分で立ち上げる想定はまったくなかったのですが、一時帰国した際に知人にここを紹介され、なんだかピンときてしまって。なにかに突き動かされるように、2017年にオープンしました。
たちばな 普段はどのように運営に関わっているのですか?
岸本 代表兼芸術監督として、地下にある劇場、2階にあるギャラリーの年間プログラムを組んでいます。作品の翻訳や通訳を担当することもあります。
たちばな この連載ではさまざまな方に「世界観」について伺っています。「BUoY」には独特の雰囲気がありますが、「世界観がある」と言われたことはありますか?
岸本 そうですね。ここのコンセプトは「社会的無意識としての他者と出会う」なのですが、コンセプトがはっきりしているためそう言われることがあるのかもしれません。ちょうど今日もフェミニズムとアクティビズムをテーマに活動するアーティストの展示を準備していますが、世のなかにある社会通念のようなものに問いを投げかけるのがこの場やアートの役割なのではないかと思っています。
たちばな カフェはコンクリートむき出しの壁に、温もりのある木のデスクと椅子。劇場もとても廃墟感がありますよね。この空間演出は意図したものですか?
岸本 実は意図してこれらの椅子や机を集めたわけではないんです。カフェの一部の椅子は、私が大好きだった新橋のお蕎麦屋さんからもらいました。蕎麦の芯だけで作る透明なお蕎麦で、信じられないくらい美味しくてそばつゆが邪魔になるくらい。そのお店がクローズする時に、人づてに譲り受けました。
カフェ中央にある大机は、とある養護学校で図画工作の授業で使われていたもの。穴が空いていたりするのはそのためです。窓辺にあるドライフラワーは、私がこれまで生けてきたお花の残骸(笑)。それぞれ、大なり小なり歴史を担っていることが特徴です。
たちばな そうやって聞くだけで、これらの机や椅子がとても貴重なものに見えてきますし、すべてがこの空間の意味づけに一役買っている気がします。
岸本 いま話しているカフェは、もともとボウリング場です。よく見ると、足元にレーンのあとがあるんですよ。
たちばな あ、ほんとだ。でもなんだか統一感があるんですよね。たとえばエンタメの世界などでは、衣装や小道具の細かいところまでが統一されていないと世界観が破綻するということがよくありますが、ここではむしろ1トーンではない雰囲気がBUoYの世界観につながっているように思えます。ちなみに岸本さんは、「世界観」をどのような意味合いのものとしてとらえていますか?
岸本 三宅陽一郎さんとの対談記事にある「環世界」の話が、私の思う概念に近い気がしますね。
たちばな 「生物がもっている、自分の知覚をベースに切り取っている世界」のことですね。自分と関わりあるものだけを切り取って、その生き物にとっての世界が構成されているという話でした。
岸本 これは芸術にも通底する概念だと思います。アーティストに限らず人はおのおののやりかたで世界を解釈しています。そしてそれぞれの哲学や思想のうえに世界観と呼ばれるような何かが構成され、その延長上に作品が立ち上がっていくわけですが、そのベースにある「世界認識」が、橘さんの「世界観」と呼応するのだと思います。ただ私としては「世界観」という言葉をあまり使わないようにしているんです。
たちばな それはなぜですか?
岸本 世界観という言葉は曖昧で、何かを指しているようで何を指しているのかよくわからない部分があるからです。それよりもどちらかというと、それぞれの作家が持っている根本的な哲学やコンセプト、経験に興味があります。
たちばな それに関しては私も同意できるところがあります。映画祭の審査員として作品を評価するときに「世界観が独特」「世界観が良い」などのような言いかたはしないと決めています。「世界観」は言葉がぼんやりしており、いろんな定義で使われるため、「ごまかしのワード」になってしまう危険性があるからです。その意味でも世界観という言葉をきちんと言語化し、解像度を上げて使用する必要があると考えています。