すべての点が線になる瞬間を信じて――映像監督・松本卓也さんが自身のキャリアを振り返る

すべての点が線になる瞬間を信じて――映像監督・松本卓也さんが自身のキャリアを振り返る
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2024/06/27 08:00

 さまざまな領域で活躍するクリエイターを招き、企業とクリエイターのマッチングサービス「オプサー」を展開するヒューリズムのCOO 諸石真吾さんが、そのキャリアや作品を深掘りしていく本コーナー。第1回は、映像監督のTAUMA IMAGE 松本卓也さんが登場です。

土台になっている「写真」「音楽」「映像」 運命を変えた中野裕之監督との出会い 

諸石(ヒューリズム) まずは経歴から教えてください。

松本(TAUMA IMAGE) 幼少期は当時原因不明の病気にかかっており、ずっと運動をしてはいけなかったのですが、そんな僕をみかねた母の勧めで小学2年生ごろからクラシック音楽のフルートをやっていました。

それから2年ほどたったころ、歩くことはできたので夏休みや冬休みに祖父の山小屋に通っていたのですが、その山にはきれいな蝶々がたくさんおり、その蝶を標本にすることが趣味になっていました。ただ祖父が住職だったこともあり、そうやって命を扱うことは良くないのではないかということで、カメラをくれたんです。そこからは標本にする代わりに、写真を撮るようになりました。きれいなものを撮りたかったのだと思います。

その後、中学2年生ごろだったと思いますが、医療の進歩により病気が完治。運動をしても良いとなり挑戦してみたのですが、今までやってこなかったからかとにかく苦手で……。

フルートも続けていたためその先生に治ったことを伝えると「プロになるのはやめたほうが良い」と言われたんです。「唇と鼻の形が悪い」と。それを告げられたときに一気に嫌になってしまいました。その後ギターを始めたりもするのですが、そこで僕は音楽が苦手だということに気づきます。
でも僕には音楽しかなかったですし、でも部活もしていないし、青春なんて遠い存在。とても暇を持て余していたため、毎日バカみたいに映画をレンタルして観ていました。その物語や映像美にすごく救われたんです。

写真右:TAUMA IMAGE 松本卓也さん
写真右:TAUMA IMAGE 松本卓也さん

1997年に入学した大学の授業の一環で、さまざまな職業の人が自身のキャリアについて話す講義があり、そこで中野裕之さんに出会いました。当時MTVのミュージックビデオなどを撮影したり、映画も撮り始めたりしていた、最先端の映像監督です。そのときの内容が、「音楽もミュージックビデオも大好きだけど音楽が苦手」というコンプレックスを持った僕にとにかく響きました。

当時の映像業界は、10年かけて1人前を目指すようなものだったのですが、中野さんはとても軽やかだった。自分でビデオも回すし交渉もする。ですがアーティスティックに好きなものを撮影している。そんな唯一の存在だったため、とても感激してしまったんです。

映像も映画も好きだけれど、上下関係が厳しい映画業界は嫌。ずっと映像を撮りたかったけれど、そういった下積みは苦手でしたしあまり向いていない。そう思っていたので、そんななかでこれほど軽やかに仕事をしている人がいることに心が震えてしまい、講義が終わったあと中野さんに「もう少し話を聞かせてください」と声をかけにいきました。それに中野さんも応じてくれて、ほかの学生と一緒にお茶をしに行ったんです。そのころ中野さんが布袋寅泰さんのミュージックビデオを撮っていたため、「これってどうやって撮影したんですか?」と聞くとすごく丁寧に教えてくれて、かつその話がとてもおもしろくて。

そこで「映画も映像も好きなだけで全然作れないけれど、映像作家になれますか?」と聞いたら、中野さんがニヤっと笑ってこう言ったんです。「なれるに決まってるだろ?ここにある色鉛筆をお前が世界でいちばん上手く撮れるようになれば、映像作家だと思って良いんじゃないか」って。

当時すでにデザイン会社への就職が決まっていました。ウェブデザインが登場したばかりでこれから伸びるのではないかと感じていたからです。しかし映像作家になれるのだとわかり、僕の中でウェブデザインの道に進む選択肢はなくなってしまいました。

苦手を補完してくれるコンピューターに感銘 CG会社に入社するまで

諸石 当時のCGは、どういったレベルだったんですか?

写真左:株式会社ヒューリズム 取締役 COO 諸石真吾さん
写真左:株式会社ヒューリズム 取締役 COO 諸石真吾さん

松本 アドビのIllustratorで言えば3.0くらい。映像はまだまだこれからというタイミングでした。

当時のグラフィックの世界では、上手く線を引くといったことがとても大切でしたが、僕はとにかくそれが苦手でした。そんなときに学校にMacが導入されたので使ってみると、僕でもすごくきれいな線が引ける。「コンピューターってすごい!」と感動しました。「これだったら天下がとれるかもしれない」とまで思いましたね(笑)。僕の苦手な部分を補完してくれるように、何もできない人でもできるようになるのがコンピューター。その点に、とても「未来」を感じました。

そんななかで自分は何をすれば良いのだろうと思い、CGの研究をしている双子の兄弟に尋ねたら、「映像は手が出せる金額ではないけれど、静止画であればコンピューターのソフトがあるよ」と教えてもらいました。貯めていたバイト代でコンピューターを買って実際に触ってみると、やはりめちゃくちゃおもしろい。

ピクサーの『トイストーリー』もおそらくまだ制作中くらいで、『ジュラシックパーク』は着ぐるみを使って撮影をしていたころ。静止画のCGソフトは自分で買うことができる値段だったのですが、動画のCGソフトは高額で手が出せない時代でした。スキルを身につける選択肢がスクールに行くことしか思いつかなかったため、親に初めて頭を下げ、お金を借りて1年間スクールに通うことに。ゲーム会社などはたくさん求人があったのですが、実写映像にこだわりがあり、映像業界志望だったため僕にとってはあまりピンとくる会社がなかったため、スクール卒業後は大学で学んだデザインを武器に、大阪で友人たちと会社のようなものを始めました。

その会社自体は半年ほどで解散してしまうのですが、しばらくすると超黎明期にもかかわらず「大阪にCGの会社が立ち上がったらしい」という噂が流れてきた。それが16年ほど在籍することになるCGデザイン会社でした。当時のCGはゲームで使われることがほとんどで、映像などではあまり活用されていませんでしたが、在籍していた会社の創業者たちは「広告のCG会社」を掲げたんです。僕もディレクターになれれば何でも良いと思っていたため、その会社に入りました。

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