スマートフォンとSNSが浸透した2010年代以降、ブランドコミュニケーションの主役は写真や動画になった。InstagramやTikTokをはじめとするビジュアル中心のプラットフォームが急成長し、広告やキャンペーンは“いかに目を止めさせるか”を競うようになった。高解像度の写真、リアルな動画、CGを駆使した演出は今や当たり前になり、かつては新鮮だったビジュアル表現が均質化してきている。
しかし近年、こうしたデジタル写真・映像の洪水に対抗するように、ブランドがあえてイラストを選ぶケースが目立つようになった。SNS上でのアイコン化、パッケージデザイン、壁画、モーションを組み合わせた広告など、イラストレーションを軸にした表現が再び存在感を増しているのだ。英国・マンチェスター発のクリエイティブメディア「Creative Boom」も「Why brands are turning back to drawing(なぜブランドは再びイラストを選ぶのか)」と題した特集で、この“イラスト回帰”を取り上げている。
なぜ今、企業はイラストレーションに再注目しているのか。そして、ブランドがイラストを活用するうえで押さえるべきポイントは何か。本記事ではその背景と実践のヒントを探っていく。
なぜブランドはイラストに回帰しているのか
写真の洪水の中で際立つ個性
SNS広告やオンラインキャンペーンでは、1日に膨大な写真や動画が流れていく。高解像度の写真が当たり前になった結果、かえってブランドの個性が埋もれやすいという逆説もある。
この均質化を打破する手段がイラストだ。線の揺らぎ、色の独自性、キャラクターの表情といった要素は、アルゴリズム生成の写真では代替しづらく、ひと目で「このブランドらしさ」を感じさせる。
抽象的なコンセプトや感情を表現できる――Selfridgesの事例
イラストは、目に見えない価値や未来的な概念を可視化するのが得意だ。テクノロジー、サステナビリティ、ウェルビーイング、祝祭性など、抽象度の高いテーマを写真でそのまま表すのは難しい。一方、イラストなら形や色、キャラクター、視覚メタファーを用いて「安心感」「希望」「祝福」といった感情をわかりやすく届けられる。
英国の百貨店「Selfridges」は、デザインスタジオ「Fromm Studio」と組み、ロンドンやバーミンガム、マンチェスターの店舗ウィンドウをフォークアート風の3Dイラストで装飾した。これは年間企画「Selfridges Celebrates」の一環で、バレンタインや母の日、イースター、父の日など季節のテーマごとに店内アニメーションやデジタル素材まで展開し、一貫した祝祭感や温かみを表現している。
このプロジェクトでは、キャンペーン全体のためのグラフィックツールキットも開発され、各チャネルで同じ世界観を維持しながらも、季節ごとの空気感や感情を柔軟に表現している。Leah Airey(Jelly)はCreative Boomの取材に対し、「イラストを従来の枠から解き放ち、“どこで消費できるか”を拡張した。高級文脈の中でイラストを使うことは人々を驚かせる」と語っている。
Selfridgesの取り組みは、抽象的な祝祭性や季節の感情をイラストで可視化し、ブランド体験を感情的に統合する好例だ。
世界観を統一できる資産性――TfLの事例
イラストは、ブランド世界観を長期的な資産として構築しやすい。モデルや撮影環境に依存する写真と異なり、統一されたタッチやキャラクターを設定すれば、ウェブ、広告、OOHからグッズまで一貫性を保てる。
この資産性を示す代表例が、ロンドンの交通機関「TfL(Transport for London)」の25周年記念キャンペーンだ。2025年、TfLは広告代理店「VCCP」とメディアパートナー「Wavemaker UK」と協働し、ヴィヴィッドな手描きイラストポスターを軸とした統合型キャンペーンを実施した。5枚のポスターはOysterカード導入、ナイトサービス、ノーザンライン拡張、ロンドンオリンピック・パラリンピック支援など、TfLの歴史を象徴する出来事をテーマごとに描き分けている。タッチは多様でありながら、全体を通して「ロンドンの交通と文化」を語る統一した世界観を実現した。
さらにDOOH(デジタル屋外広告)にはアニメーションを加え、静止画から動きへの展開も取り入れている。クリエイティブディレクターのSimon Learman氏は「象徴性と可読性のバランスを重視し、人間味のあるビジュアルでロンドンの文化とTfLの進化を表現した」と語っている。大規模な公共交通ブランドが写真ではなく手描きを選んだことは、イラストの資産性と物語性の価値を象徴している。
壁画や手描きによる没入感と記憶への定着――Nikeの事例
都市のカフェやポップアップストア、公共スペースなどでは、壁一面のイラストが空間体験をつくり、来場者が思わず写真を撮ってシェアする自然なPRが生まれている。デジタル広告が氾濫する今だからこそ、手描きの痕跡がある物理的な作品は記憶に残りやすく、ブランドとの接点をより深く印象づける。
象徴的な例として、Nikeがフランス代表のエース、キリアン・ムバッペ選手を描いた巨大壁画がある。ロンドンを拠点とするGlobal Street Artが手描きで制作したもので、完成後、ムバッペ本人が自身のSNSで共有したことで数百万人のフォロワーに拡散された。ブランドが人の手の痕跡を活かし、物理空間での体験をデジタル上に広げた好例だ。
