突然ですが、雲形定規をご存知でしょうか。Macintosh IIが発売された当時、私が仕事で訪れたデザイン事務所の机には、必ずと言っていいほど置かれていたものです。「道具を見ればその人の仕事がわかる」と言われますが、その定規は象徴的な存在でした。そのころのデザイナーにとっての道具とは、こだわりの筆記具と定規、そして修正インクだったのです。
当時の企業プロモーションを振り返ると、新聞や雑誌の広告、DMのように印刷物が中心でした。印刷業界全体でも、文字を組むのは写植会社、写真原稿を扱うのは製版会社というように多くの会社が関わっていました。そのなかでデザイナーはトレーシングペーパーに指示書と呼ばれる設計図を描き、のこりは各分野のプロフェッショナルたちの仕事と、幾重もの校正紙の上に印刷物が成り立っていました。私自身は見たことはないのですが、女性の肌色を再現するために、減力液で網点をエッチングする職人がいると聞いて驚いたことを覚えています。
時は流れて、写植や製版処理はソフトウェアによって置き換えられ、PhotoshopやIllustratorといったデジタルツールがクリエイターの道具となっています。あれから30年、道具が職能を表すとすれば、デジタルツールを操るクリエイターには、どのような変化が待ち受けているのでしょうか。アナログからデジタルへと、主戦場のメディアが急速にシフトしたことも無関係ではありません。今回は「道具とメディア」、このふたつの視点からこれからのクリエイター像を捉えてみたいと思います。
実践してきたDXで得たもの
デジタルツールを提供するアドビは、最先端のデジタルマーケティングを実践している会社でもあります。
その始まりは10年前のこと。当時のウェブサイトと言えば、そのほとんどが雑誌広告をそのままインターネット空間に引っ越したような「カタログサイト」でした。その状況でアドビのウェブサイトであるAdobe.comを大規模刷新した背景にあったのは、Creative Cloud製品の市場投入に合わせたビジネスモデルのサブスクリプション型への転換です。「サイトとデータの一元化」を目的に、10年以上独立して運用していたコマースエンジンとカスタマーサポートのプラットフォームを本体サイトへ統合。お客さまの行動全体を把握し、それぞれのプロファイルに合わせてコミュニケーションを行うには、裏側の仕組みを変えることが不可欠だったのです。
これを機に、お客さま宛にアップグレードの案内が封書で届くことはなくなりました。それはAdobe.comが顧客エンゲージメントの中心になり、デジタル体験をビジネスのエンジンそのものに変えた転換点だったのです。
自らビジネスを変えるDX(デジタル変革)に取り組んだことで、アドビは多くの知見を得ました。そのひとつが、コンテンツの爆発的な増加を支えるクリエイティブ環境に対するビジョンです。お客さまとのあらゆるやりとりがデジタル化されると、優れたデザインのコンテンツを通して、パーソナライズされた体験を期待するようになります。その実現に必要なのは、膨大な量のコンテンツ。なぜならば、最適な顧客体験の提供とは、お客さまと向き合い改善を繰り返すものだからです。クリエイティブ環境は、個人の道具から共同作業のプラットフォームとしての進化が求められる――。こうしたビジョンは、現在のCreative Cloudそのものと言えるでしょう。