茶の湯で大切なのは「えらぶ」こと
たちばな 『千利休の功罪。』『利休入門』など千利休に関する本も上梓され、海外での講演やワークショップのご経験も多い宗慎さんと世界観についてお話しできることを楽しみにしていました。今日はよろしくお願いいたします。
早速ですが、茶の湯(茶道)というのは、お茶を飲むだけの場所ではないと聞きます。茶室がまるで「ひとつの宇宙」のようにもなると耳にしたことがありますが、この空間が目指すのはどういったものなのでしょうか。
木村 「侘び」という名の非日常ですね。極めて日常的な振る舞いであるにも関わらず、それを洗練させることで非日常の体験まで高めることを意識しています。
たちばな 茶の湯に必要な道具、掛け軸、お花、お菓子などはすべて、相手によって変わるのでしょうか。
木村 はい。もてなす相手との空間、時間を意識してすべての準備が行われます。掛け軸や道具など形のあるもの、花や菓子といった消えてなくなるもの、そのそれぞれに意味があり、組み合わせは無限とも言えます。1つひとつの役割は極めて実用的かつ日常的なものなのですが、組み合わせを含めて研ぎ澄ましていくなかで、何が美しいのかを磨き続ける作業なのです。つくることも大切ですが、何より選ぶこと、です。
たちばな 美意識が重要なのですね。
木村 そのとおりです。それは個人的な行為でもあるため、私の考える美しさとたちばなさんの考える美しさは当然違います。けれど、何が美しいのかという、それぞれの異なる美意識が茶室の中でクロスオーバーして交わるところにおもしろみがあるわけです。もてなしにおいて、いろいろなものを選ぶわけですが、自分が選んでいるようなつもりでいて選ばされていることも多い。ふと、そのことに気づかされます。もとい、気づくことができなければ不幸でもある。自分の選択のようでありながら、数百年にわたる人による営みの積み重ねにもとづく一手だったりもするのです。
たちばな 自分が選んでいるようで、相手によって選ばされている、というのはおもしろいですね。
木村 それは相手のなかにある個性と自分の個性の出会いの結果であり、どんな選択肢も長く積み上げられてきた茶の湯の上に成り立っているわけです。
たちばな それらすべてに気を配るというのは大変な作業ですね。
木村 さほど難しいことではありません。ただ、素直に直向きに物事と向き合うだけで良いのです。できることを、可能な限り、で良いと思います。型があることの意味は、正にそこですから。自分の中で興味がないこと、今日は間に合わないことなどはパターン化された形式にのっとり任せておきながら、自分が大切と思うこと、どうしても、と思うことに集中すれば良いのです。
古典のすごさは、何百年と時の流れにさらされてもなお消えずに残っているだけのタフさがある点です。それこそ「レジリエンス(回復力、弾性)」の極致だと思います。逆に、歴史に洗われた型と向き合うそのなかで、自分にとって譲れないところを発見していくことも大切です。