「社会的インパクト」より痛感したものとは デジタル庁・鈴木伸緒さんが語る、行政とデザインとキャリアの話

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2025/03/27 08:00

 さまざまな領域で活躍するクリエイターを招き、企業とクリエイターのマッチングサービス「オプサー」を展開するヒューリズムのCOO 諸石真吾さんが、そのキャリアやアウトプットを深掘りしていく本コーナー。今回は、 デジタル庁でサービスデザインユニット長をつとめる鈴木伸緒さんに話を聞きました。

ニューヨーク留学のひとつのきっかけは、ある教授の言葉

諸石(ヒューリズム) 最初にデザインに興味を持ったきっかけから教えてください。

鈴木(デジタル庁) もともとメーカーでエンジニアをしていた父と、母の影響が大きかったと思います。中学のころ、母がインテリアコーディネーターの資格をとる際に模型を作っていたのをみて建築に興味を持ち、大学に入るまでは建築を学びたいと思っていました。しかし、浪人をしていたときに父がGKデザイングループ創設者の榮久庵憲司さんの書籍『インダストリアルデザインが面白い: 第一人者が教えるモノに命を吹き込む極意』をくれたことをきっかけに、インダストリアルデザインという領域があることを知り、大学受験では方向を転換。結果、京都工芸繊維大学(以下、京都工繊)に入学しました。

諸石 京都工繊ではどのようなことを学んだんですか?また没頭したことはありますか?

鈴木 1年目は幅広く勉強しました。建築やグラフィック、インダストリアル、写真などの課題がたくさんあり、1週間のうちになにかをつくり講評される。そんな1,000本ノックのような毎日を過ごしていたので、とてもハードでしたね。

私が初めて自分のPCを持ったのもそのころだったと思います。インターネットでもクリエーションができ、ウェブデザインが広まり始めたタイミング。2003年ごろでした。そんななか、自分でウェブサイトを作るのがとても楽しかったこともあり、2年生のときは正直あまり学校に行かずにウェブデザインばかりやっていました(笑)。ただ、コードを書いてデザインをしていたその時間が、今もベースになっているような気もします。

大学の特性がら、建築か工業デザインを勉強の軸にする人が多かったので、私のような人はほとんどいなかった。グラフィックを学んでいる学生の中に、DJをやっていてフライヤーやウェブサイトに興味を持っていた友だちがひとりいたのですが、その友人くらいしかウェブデザインについて話せる人はいなかったです。

デジタル庁 サービスデザインユニット長 鈴木 伸緒さん
デジタル庁 サービスデザインユニット長 鈴木 伸緒さん

研究室ではコミュニケーションデザインを専攻しました。京都工繊では多くの教授はほかの仕事と二足の草鞋を履いていたため、研究室の教授もプロモーションをふくめた商品のコミュニケーションデザインの仕事などをしていました。京都工繊を選んだのは、そういったアカデミック領域とは異なるデザインを学びたかった、というのも大きな理由です。

どこの研究室もスタジオをもっておりクライアントがいたのですが、私が所属していた研究室では京都を拠点とする中小企業のリブランディングに携わりました。これが、仕事として初めて取り組んだデザインです。私は試行錯誤しながらウェブサイトのデザインを担当したのですが、クライアントがそのウェブサイトをとても気に入ってくださり、10年以上そのサイトを使ってくださっていました。その際、ロゴや会社のサインなども全部リニューアルし、制服のワッペンなど細かい部分まで、研究室のメンバーで分担しながらリブランドに取り組んだのは印象に残っていますね。

諸石 京都工繊を卒業したあと、ニューヨークにあるパーソンズ・スクール・オブ・デザインに留学なさいましたが、どんなきっかけだったんですか?

鈴木 当時授業を受けていた教授から「とにかく個人として有名に」といった言葉をかけられたことがひとつの理由です。京都工繊の人は、企業の中で活躍することはできるから、それだけでなく「社会のなかで個としてちゃんと立ってほしい」と。

また、両親と姉は父の仕事で3年ほどニューヨークに住んでいたのですが、私だけ行ったことがなく、家族の思い出話についていけないことがありました。今思えば、その思い出を補完するという意味で留学に踏み切ったのも大きいかもしれません。社会人になったらなかなか難しくなるだろうし、行くなら今しかないと思い1年半ほど留学することにしました。