今のものづくりにも活きている、Appleでの学び
――まず、Weberさんのこれまでの経歴をお聞かせください。
ロサンゼルスで生まれ育ち、その後サンフランシスコに移り、スタンフォード大学で機械工学を学びました。在学中に京都大学や九州大学に留学したところから、日本との縁を結び始めました。
大学時代、多くの学生はプログラミングを学んでおり、ヤフーやGoogleといったソフトウェアを軸にしている企業が世界を救うだろうという雰囲気がありました。ですが僕は、授業を受けても心が躍らなかった。実在する「もの」に関わりたいとの思いから、ものづくりや設計の仕事に関われるAppleでインターンを始めました。その後、2001年に正式に入社。iPodのチームに、4人めのメンバーとして配属されたのち、iPhone設計チームのコアメンバーとして開発に携わりました。
日本にやってきたのは2007年。Appleでプロダクトデザインのアジアチームを新しく立ち上げるためでした。そのころ、入社から6~7年が経っていたのですが、毎年機種のアップデートを繰り返す仕事に変化がほしいと感じていました。そこから離れて、自分にしかできないことをしたいと考えるようになったんです。当時、iPodの裏蓋は新潟で作っており、職人が金属を磨いている現場を見学することがあったのですが、日本の担当者を介してではなく、直にコミュニケーションをとったほうがおもしろいことに気づいて……。デザインチームで日本語ができるのは僕だけだったため、自ら上司に提案し、自分にしかできないポジションを作りました。ものづくり文化の深い日本で眠っている技術を発掘するような、地道な仕事でしたね。
それからおよそ8年かけてそのチームをアジア各国に広げたのち、2014年にAppleを退職。同時に、Weber Workshopsを設立しました。Appleではガジェット開発に関わってきましたが、現在はおもにコーヒー関連プロダクトの開発・販売を行っています。
――クリエイターとして、Appleで印象深いできごとはありますか?
入社当時はAppleが急成長する前だったため、1人ひとりの責任分野が広かった。とくに26歳になる年に、iPod nano初期機種の設計をひとりで任されたことは印象深いです。もしなにか問題が起きたらという怖さもありましたが、iPod nanoという歴史的にも前例のない機種を作るため、最善を尽くすための努力はすべてしました。
またAppleでは開発だけでなく、プロジェクトマネジメントから設計、デザインの思想まで学びました。マーケティングやデザイン、さまざまな分野で高いスキルをもったメンバーがチームとしてひとつの目標に向かうため、すべての仕事を垣間見ることになるんです。それをできるだけ吸収しようとしていましたね。
「長く使える製品開発」と「コーヒー」への思い
――Weber Workshopsの設立に至るには、どんな背景があったのですか。
サードウェーブコーヒーの革命はまさにサンフランシスコが中心。Appleの職場にもマシンがあって、会議の前によくカプチーノを作って飲んでいました。当時から自分でも機械を買っていじったりしていたのですが、「もっとこうしたら良いものが作れるのではないか」とよくイメージしていたんです。Appleが会社として規模も大きくなり、自身も余裕を持てるようになったタイミングで、自分のやりたい分野もはっきりしてきました。
また、iPhoneのような工業製品の寿命はおよそ2~3年。壊れたら買い替えるという大量消費のサイクルにあるプロダクトだと思うのですが、それに関わっていることへの疑問が少しずつ大きくなっていました。開発した製品が、十年と言わず何十年も使われるような消費サイクルに関りたいという思いとコーヒー好きな気持ちが掛け合わさり、今の会社を立ち上げることにしました。
――拠点として、福岡の糸島を選んだのはなぜですか?
ひとつは、住み心地が良くて好きな場所という、個人的な理由です。ワークライフバランスのためとも言えるかもしれません。糸島はゆとりのある生活ができそうだと思って住み始めたのですが、実際にそのとおりでした。ただ、会社の登記はアメリカで、ものづくりの拠点は台北。最初からグローバルで展開することを考えていたんです。そういった経営が実現できているのはテクノロジーのおかげですし、こういったスタイルは、今後さらに増えていくのではないでしょうか。
また、ものづくりの現場(台北)との距離感も福岡は最適。ある程度の距離があるほうがプロダクトの方向性をゆっくりと考えることはできます。とは言っても、福岡から台北は物理的な距離も近く、朝に出発すれば昼には台北のオフィスに到着することも可能。台湾のほかの地域のメーカーへ訪問しやすい点も、とても気に入っています。