マツダ一筋40年超 デザイン部門長として開発した「SHINARI」で変えた風向き
――まずはご経歴からお聞かせください。なぜデザインの道を志したのですか?
父がデザイナーで、家の中に美しくデザインされたものが身近な存在としてあったこともあり、僕にとってデザインは特別なものではありませんでした。ただ、本当にデザイナーになるかどうかは、大学に入る直前まで悩みましたね。大学受験では建築とデザインに絞り何校か受けたのですが、第一志望だった建築学科に落ちてしまったため、合格したデザイン系の大学で工業デザインを専攻しました。
大学生のころは自動車ブームだったこともあり、私も学生時代に車を購入。最初は「走るほう」に興味を持ちました。自動車の競技「ラリー」を始めたのもそのころです。車のデザインよりも、車そのものを先に好きになったため、就職先を選ぶときも、車かバイクの会社しか考えていませんでした。
私がマツダに入社したのは1982年。まもなく42年が経過しようとしています。そのなかで、さまざまなプロダクトに関わらせてもらいましたが、1999年ごろ、ある車種のデザインを任されるリーダー「チーフデザイナー」にアサインされました。それを皮切りにいくつかの車にチーフデザイナーとして関わり、2009年にデザイン本部長に。2013年に執行役員、2016年には常務執行役員として経営サイドに入り、2年ほど前からはシニアフェロー ブランドデザインという肩書になりました。会社のデザイン全体を俯瞰し、ブランドづくりを行う役割です。
――入社から約40年が経過し、マツダにおけるデザインの役割はどのように変わってきていると感じますか?
入社した最初のころ、デザインの役割は、個別の車種デザインに限定されていました。それがだんだんと、車のデザインがブランドづくりのひとつの柱として捉えられるようになっていきました。 結果、デザインの位置づけが少しずつ明らかになってきた一方、経営にはデザインがあまり深く入り込めていない状況が、私がデザイン本部長になる2009年ごろまで続いていました。
その間はマツダがフォードグループの一員であった時期も長く、デザインのリーダーもフォードの方だったことも一因だったかもしれません。その風向きが変わってきたのが、私がデザインの役員になり始めたころ。経営のスタイルも変化していきました。
――経営陣にデザイナーが必要だという流れは、社内に自然とできていったのでしょうか。なにか前田さんから働きかけをしましたか?
自然と言えるほどスムーズなものではなかったと思いますが、経営陣にも徐々にデザインの重要性が浸透していきました。その一方、私からも伝えていたのは、「車」としてのデザインだけでなく、「会社自体」もしっかりデザインしなければならないということ。つまり、ブランド様式が必要なのだと、リーダーになってから数年間訴え続けました。
もちろん、ただ伝えるだけでは経営陣も納得はできないでしょう。そこで、我々の武器である車のデザインでそのレベルの高さを世界で証明すべく、マツダの将来を担うような「ビジョンモデル」としての車を実際に開発しようと思いました。会社の将来のビジョンを車で表現し、それを託したSHINARIというその車は、実際にヨーロッパで非常に高い評価をうけた。流れが変わったのは、そこからですね。デザインの重要性と、ブランドとして高みを目指していくというロードマップが徐々に明確になっていったように思います。
それと同時に、エンジンやシャシ(車の骨格)など車の中身となる部分も、新しい時代に向けて刷新していく動きがあった。偶然にも、デザインを新しくする、ブランドを持ち上げるといった流れと、車の性能がシンクロするような状況になっていました。それが2010年ごろだったでしょうか。そこから会社も「ブランド価値経営」を掲げるようになり、さまざまな施策を仕掛けていくことになります。