Droga5中川諒さんの思考や転機を振り返ったら、今後のクリエイターに必要なマインドが見えてきた

Droga5中川諒さんの思考や転機を振り返ったら、今後のクリエイターに必要なマインドが見えてきた
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2024/11/18 08:00

 最前線で活躍しているクリエイターに、これからの広告づくりについて話を聞く本コーナー。今回は、アクセンチュア ソング傘下のクリエイティブエージェンシーDroga5でクリエイティブディレクター/コピーライターをつとめる中川諒さんが登場。電通時代から今に至るまで、クリエイターとしての転機を振り返ります。

「根腐れしていたような7年間」を経てコピーライターに

――まずはご経歴からお聞かせください。

大学生のときに、電通、博報堂、ADKでインターンをしたり、ワイデン+ケネディやピラミッドフィルムでアルバイトをしていたりしたこともあってか、新卒で電通に入社したときは「自分がこの業界を引っ張るんだ!」という意識が高めな状態でした(笑)。それが裏目に出たのかはわかりませんが、第一希望だったクリエイターとしての配属は叶わず、最初の5年間は当時のプロモーション事業局に所属。イベントやデジタルキャンペーンの企画と制作を行ったのち、2年間営業職としてホンダを担当しました。そのあとクリエイティブ試験を受けて合格し、念願だったクリエイティブ局へ異動。コピーライターになりました。

――クリエイティブ局に異動するまでの7年間は、中川さんにとってどのようなものでしたか?

今となっては良い経験をさせてもらったと思っていますが、当時の僕にとっては暗黒時代です(笑)。

当時いちばんつらかったのは、だんだんと自分自身のことを信じられなくなっていったこと。自分はクリエイティブに携わりたいと思っているし、向いていると思っているのに、誰も適性があるとは明確に言ってくれない。自分よりも年下のクリエイティブメンバーのために、早く出社し、資料を出力し、議事録を書いて……などしている間に、少しずつ自分でも自分がクリエイティブに向いていないのではないかと疑うようになってしまい、僕は何をしているのだろうと空しくなってしまいました。

そうであればいっそのこと、クリエイティブに関係のない仕事をしようかと転職を考えた時期もあります。ただ、そこまで考えると気持ちが少し楽になり、もう失うものはないという思いで自主提案や自主プロジェクトを始めた結果、TCC新人賞やグッドデザイン賞を受賞することができた。それがきっかけで社内でも「やる気のある営業がいるらしい」と噂になり、風向きが変わっていったように思います。

Droga5, Accenture Song クリエイティブディレクター中川諒さん
Droga5, Accenture Song クリエイティブディレクター中川諒さん

そこにたどり着くまでは正直、自分より活躍している同期や後輩のSNSを見ないようにしたりカンヌライオンズの結果が出る6月の時期は心がざわついたり(笑)、根腐れしていたような7年間ではありましたが、希望が通らないなかでも努力を怠らなかった姿勢が今の栄養になっていると感じています。

「何が面白いか」がわからず自主的に編み出した「企画レシピ」

――念願だったクリエイティブ局では、どのような業務からスタートしたのですか?

最初に渡された名刺は「コピーライター」でした。当時すでに7年目だったので、コピーライターであれば、本来バリバリと案件を引っ張っていかなければいけません。ですが誰にコピーを教えてもらうでもメンターがいるわけでもなかったこともあり、最初はコピーの仕事がありませんでした。そのため、PRやキャンペーンなどプロモーション局で培った経験を活かし、「キャンペーンにおけるPR部分を担う人」としてプロジェクトに入っていきました。またそれ以外では、クリエイティブディレクター(以下、CD)のような立場で、デジタルやSNSを主軸にした統合キャンペーンにも携わるようになりました。

――ではどのように、コピーライターやCDとしてのスキルを身に着けていったのでしょうか。

本当に難しかったですね(笑)。それが書籍『発想の回路』を執筆するきっかけにもなりました。

最初は周りが何をおもしろいと言っているかがわからなかったんです。「これ企画になっていないね」「それはアイディアじゃないよ」とフィードバックをもらうのですが、その理由が理解できなかった。そこで、当時「企画レシピ」と呼んでいた、企画を分解したエクセルのシートづくりを行いました。カンヌライオンズを受賞した作品などを「戦略」「アイディア」「表現」などの視点で分解し、エクセルのシートに自分なりにまとめてパターン化していく。それを続けているうちに、「おもしろい」の基準がだんだんとわかっていったんです。

勉強法のひとつとして、コピーライターは良いコピーを「写経」することもあると思うのですが、写経をしていても僕は何が良いのかを理解できなかったんですよね。そこで話題になっているコピーをもとに、「自分だったらそのコピーをクライアントにどのようにプレゼンするのか」のストーリーを勝手に考えてまとめていったんです。その作業が、「アウトプットから逆算し思考回路をつくっていくこと」につながったのか、少しずつスキルが身についていく感覚がありました。

――前職で印象に残っているプロジェクトはありますか?

仕事へのスタンスに大きな影響があったと思うのは、前職時代に営業としてホンダを担当した際、商品の理解を深めるためにバイクを買って免許をとったことでしょうか。

当時の僕は、社内で「クリエイティブ局にいきたいと、口で言っているだけの人」と見られていたと思います。ただバイクの免許を取得したことが広まると、「あれ、意外と目の前の仕事に本気で向き合おうとしているのかもしれない」と周りの印象が変わったことで、流れも良くなっていきました。自分から気持ちを開いて向き合おうとすると周りの目も変わってくるのだと気づいたのは、この出来事がきっかけでした。

仕事面のひとつの転機は、営業をしていたころ携わった、群馬の桐生市でお米を作っていた農家さんとのプロジェクトです。その農家さんから「中川くん、電通だったらパッケージのデザインとかもできるんでしょ?」と言われ、デザイナーでもない営業だった僕が「できます」と返答(笑)。最初はパッケージデザインの仕事としてこのプロジェクトが始まりました。

その後、実際にお米づくりを体験させてもらったところ、とても楽しかった。そこから着想を得て、お米を買うと農業体験にも参加できるといったプロセスができれば、今までと異なるお米の新しい購買体験や付加価値を提供できるのではないかと思いました。そういった体験をとおして、その農家さんが抱えていた後継者不足の問題にもアプローチするべく、そのお米を「求人米『あととりむすこ』」という名前にして発売。すると、ネーミングでTCC(TOKYO COPYWRITERS CLUB)の新人賞を、取り組みが評価されグッドデザイン賞をとることができました。とくに、コピーライターではない営業の僕が始めた取り組みでTCCの賞を受賞できたのは、ひとつの転換点だったように思います。

求人米「あととりむすこ」
求人米「あととりむすこ」