プロダクションを渡り歩いた2000年代
諸石 現在は、カオナビでの外部CDOだけでなく、生成AIとLLMを使ってターゲットの心の中の本音を自動で収集・分析する「POLLS」を開発するcurioph株式会社の代表などもつとめていらっしゃる玉木さんのキャリアを、一緒に振り返っていければと思います。大学では多摩美術大学(以下、多摩美)を卒業していらっしゃいますが、「美術」とはどうやって出会ったのですか?
玉木 美術の道を志したのは、中学生ごろだったと記憶しています。勉強がとてもできなかったため(笑)、テストの点数で測られる場所から一刻も早く離脱したかったんです。そのなかでも美術を選んだのは、まわりからの評価を気にする中学生のころ、学校の友人などに唯一褒められたのが、マンガや絵だったから。もうこれしかないと思い、ほかの選択肢を探そうとすら考えなかったですね。そこで、唯一地元の愛媛で美術を学ぶことができた公立高校「松山南高等学校デザイン科 砥部分校」に進学しました。
砥部は場所がら焼き物が盛んなため工芸や染色の授業もありましたし、美術の基礎、デザイン、データベースなどかなり幅広く学ぶことができました。今振り返っても、とても先進的な学校だったと思います。片道15kmを毎日自転車で通学していましたね。
その後僕は多摩美に入学しましたが、同じ高校からは僕だけだったのではないでしょうか。地元に就職したり、専門学校にいったり、大学に進路を見出す人があまり多くなかったですし、東京に進学する人はほとんどいなかったですね。そんななか僕が東京を選んだのは、もともと姉が上京しており、東京に憧れがあったことが大きいです。
大学生の僕は、社会人5年目ごろまで続く「玉木コンサバ」な時期真っ只中。みんなが目指しているもの、たとえば広告代理店などに強烈な憧れを持ち、それをもとに行動していたため軸がまったくありませんでした。
諸石 玉木さんが入学なさった2000年代前半の美大はどんな雰囲気でしたか?
玉木 当時は学科試験の足切りがあり、それに受からないと実技試験を受験できなかったため、頭が良い人ばかりでしたね。難関と言われる大学を受ける人もたくさんいたため、まずは国立大学にも入れるような学力レベルに達してから、実技に取り掛かるイメージでしょうか。
2000年代は映像などがとても流行った時期でした。サイケなテクノ、CGをバキバキに使った映像、ケミカルブラザーズの「Star Guitar」のような、「アートっぽいデザインがなんかかっこいい」とされていた時代だったと思います。それと同時に佐藤可士和さんのようグラフィックデザインも流行していましたね。SMAPのCDジャケットが渋谷をジャックしていたり、はたまたデザイナーがこぞってウェブデザインに使われるアニメーション作成ソフトの「flash」を学んだり。いろいろな変化があったタイミングでしたね。
諸石 多摩美を卒業したあと、さまざまなクリエイティブエージェンシーを渡り歩くことになるわけですが、どういった背景があったのですか?
玉木 当時250人くらい学生がいたら、そのほとんどが博報堂を受けるため学内での選考があったんですよ。実際のフローに進む10人に生き残るための課題づくりが必要だったんです。僕は学内選考を突破したものの、その後の選考で落選。それなりに就職氷河期だったこともあり、受けても落ちてばかり。いろいろな会社にポートフォリオを持って行っては厳しいことを言われて、の繰り返しでした。大学卒業後、最初に入社したのも、新卒も中途も募集していなかったなか自ら企画を持ち込んだ会社でした。
ネットが黎明期のころにデザイナーとしてそのウェブプロダクションに入社しましたが、デザイナーが駒のように使われ月給も当時15万円程度。日の目を浴びることがなく、朝から朝まで働いているような劣悪な環境だったため退職。その後プロダクションを渡り歩いていたところ、外資のクリエイティブエージェンシーからご縁をいただけました。
諸石 外資のクリエイティブエージェンシーだと、働いている人たちに影響を受けながら成長していくことも多いと思うのですが、どんな人が多かったですか?
玉木 日系の会社にいる人とまったく違いました。どちらかというとアウトローで楽観主義者の人が多く、何時に来ても何時に帰っても問題ない。ただ、それはクオリティ高いものをしっかり作っていることが大前提の超成果主義だからです。上司もそういう人でしたが、失敗や効率が悪いことをするとめちゃくちゃ怒られました。
この会社での経験やそこで出会えた上司の存在が、今の自分につながるターニングポイントだったと思います。